*私の○○と私の言葉*

自分の思ってること、日常の中で感じたこと、考えたことを綴っていく。

私が失くした''当たり前''と私の言葉

 

「当たり前と思ってたこと」
それが奪われた時、それを失くした時に私は
その時、やっと今までの当たり前に感謝して、その時にやっぱり後悔するんだなぁ。
 
そして、その当たり前を取り戻すとまた「当たり前にあるもの」のありがたさを忘れてしまうのかな。
 
車椅子に乗っている私はそんなことを思った。
 
ショッピングモールに行くと
当たり前のように、靴を履いた足を床に置いて立っている人や歩いている人、走っている子供たちがいた。


そういう、自分が昨日まで出来ていたこと、それが当たり前に出来ている人が心底羨ましかったの。
 
今の自分が出来ないことがただとても悔しかった。

 

 

歩けなくなって、

一人で自由に歩いて写真を撮りに行けなくなった。

 

歩けなくなって、

自分が手にしたいものを取りに行けなくなった。

 

歩けなくなって、

自分が行きたい場所に行けなくなった。

 

 

全てを周りに頼らなければいけなくなった。

 

 

自分自身の力で歩くのも物を持つのも体を動かすのも難しくなった。

母親がしてもらう事がとにかく増えた。

 

 

自立を目指してた自分には、それがあまりにも絶望的だった。

 

ただただ自分を責めた。

周りが責めなくとも

周りが大事に至らなかったらことで安心してくれても

周りが謝らなくてもいいと言ってくれても

 

ただ自分が自分を責めている。周りに謝り続けている。今も。

 

悔しかった。

あんなに自分で出来ることが

少なくなってしまっていたのにも関わらずほとんどの自由を失ったことが。

 

悲しかった。

たった1つの出来事でここまで失うものが沢山あるものなんだと身をもって知ったから。

 

みんなとの差がもっともっと広がったことで悔しいやら、悲しいやら、苦しいやら、憎らしいやら、辛いやら、腹立たしいやら、、と色々な感情がぐるぐると周る。頭の中を支配している。

 

自分を大切にできないと、ここまでたくさんの物を失うんだと、改めて感じた。

 

 

 

あんなに自分を大切にしてほしい と色々な人が言葉をくれたのに…。

 

 

 

自分が自分自身を大切にすることがこんなにも難しいものなんだ。と思い知った。

 

 

桜。春に咲く花たちを一枚の写真に

何枚もの写真に残したかった。

 

写真を撮ることが大切なことだったと気づいた。

写真を撮る時間が大切な時間だったと改めて思った。

 

だから、歩いて自分が行きたい場所へ、

自分が撮りたいものを見つけられるところに行けるように歩けるようになることから始めようと思ったの。

 

 

家でするリハビリはきっと病院でするよりも時間がかかる。

 

足を床につくたびに激しい痛みに襲われて、

それでも歩くのだ。

歩きたいのだ。

と強く言い聞かせて、痛みに耐えながら、母に肩を貸してもらいながら、また歩けるようになることをとにかく強く望んでいるの。

 

 

大丈夫、私にだって、

こんなに弱くたって、

出来る。

周りの力を借りながらだけれど、

今まであまり頼らなかった周りに頼れる機会で

 

周りの優しさに周りの温かさに

周りの愛に気づけた。

 

そんな出来事だったの。

 

いくら悔しくても、痛くても、悲しくても、辛くても、そういう時じゃなければ、

 

弱くなった時じゃなければ、

 

周りの人のありがたさを自分自身で感じることはなかなかないのだから。

 

今は周りの家族や友達、そういう大切な人たちに頼ろう。と思っているの。

 

今じゃなきゃ…今だから…

周りの環境に、誰かの周りの温もりに、

気づけるのだと勝手に一人で納得している自分がいるのだ。

 

 

周りの景色がモノクロに暗く感じても

きっと周りの人たちが

その視界に暗くなってしまった自分の世界に

色の彩りと光を入れてくれると信じて…

 

頑張れるところまで行ってから頑張ればいいのだ。と言ってくれた人の言葉を信じて。

 

今は耐え続けよう。

きっと耐えられるよね…

 

 

もし、ここまで読んでくれた方がいたなら。

 

ここまで読んでくれてありがとうございました。

読むのお疲れさまでした。

 

 

また書きますね。

 

白波 ゆめ